◎ここが欠けると御利益主義になる。
昭和四十三年三月三日 朝の御理解
皆さんもよく御存知だと思うんですけれども、三代金光様がまだ御生存時代、本部参拝を致しますと、朝の御祈念を一緒に頂きます。金光様が、御祈念を終えられて、御結界にお付きになって、一番初めに御覧になるのは時計、一番初めに御覧なさるのは時計であった。御結界にお付きになって一番初めに、様々な動作がおありになる、その前に一番初めにこうやって御覧になるのは時計をこう御覧になる。私もそうです。私も、ここへ座ってから一番初めが時計です。例えば今日なんかでも、わたしゃ座ったら、きちっと、六時十五分、今日もまあ、間違いなく、まあ間違いだらけだろうけども、神様としては、間違いのないものとしてお受け下さってあるんだあなと。そこに私は、確信を持って、皆さんの、お取次ぎ出来る訳なんです。
今日なんかは霊神様の方が非常に長かったんですから、私の祈りの内容というものが、いつも同じでない事が、分かられると思うんです。けれども、それでもやはり六時十五分なんです。
今日は、十分過ぎておる、今日はきっちり六時である、これは間違っておったかな、と思う。ところが、間違うておったなりでは前え進まない訳である。
そこで、成程、六時半もあるが、六時半でなからねばならない事があった。と後で分らして頂くところ迄いかなければ、私は云うならば確信を持っての皆さんのお取次ぎができないのですよ。例えば、寒中修業の時なんか、六時というのが非常に多かったですね。きっちり六時というのが。けれども、成程六時でならなければならんのだなという実証がです、なからなければ御用が頂きにくい、頂けない、実をいうたら。今日、私そんな事を思うんです。
今日は、親教会の御大祭でございますから、昨日、むつ屋の信者さんが車を出してくれましたから、若先生と長女と、高松さんと四人で、御供え物を買いに参りました。まあいつもの事でございますけれども、いくらいくらと、きちっと明細に書いて、若先生に渡しました。買い終わってから最後まで御用頂いておりましたから、ここの御祈念が終わる頃、まあ皆でかえって参りました。裏の方へ下りてから、いくらいくら余っただろうと私が申しましたら、そのとうりなのですよねえ。
そこで結局私がお供えしたんじゃあないなあ、神様が、お供えさして下さったんだなあ、というところに、もうもちろん不浄なんかあるはずはない。けれども当たり前の事が、当たり前の事としてなされたんだなあと。私が当たり前の事としてなされなければならない事に、例えば、欲をかけてあったとするならば、そこに間違いが生じてくる。
この前の夏の祈願祭のお供えは、私が体も調子が良かったから、私と、若先生と豊美それに、おつ屋の信司さんの四人で行った。あちら、買い終ってから、もう夕方になりましたから、お茶でも頂いて帰ろうというので、お茶を頂いて、井筒屋の二階ですよ、ところがお茶だけではもの足らんような顔しとるもんですから、なんか軽い食事でもして行こうか、それから食堂の方からこちらレストランの方がありますでしょ、あちらで軽い食事をとらせて頂いたんです。ところがお金がないんで、「これ足りませんよ。」レストランで足らんなんて。(笑)そうしたら信司さんが、「いや僕がいくらか持っとります。」云う。あの人が持っとるお金と、若先生が持っているお金と合わせて、丁度レストランで払うだけの金だったんです。成程、お供え物もだけれども御用にいった人達が、お茶を頂くその事まで計算に入れてある。間違いのない事が、結局今日の御用は神様に使うて頂いた御用だった。お供えも、神様にさせて頂いたという事がわかる。
だから不浄のつけようがない。帰ってから、信司さんにお金払おうとしたら、「いゃあ、おかげ頂いたっですけんそれは頂きません。」もう、そう云わなきゃあおられない、一緒に行った運転手さんの財布の中迄、神様は御承知なんです。
私は思うのですけれども、日々が、そういう、間違いのない、お働きの中にあってからお参りが、有難いのであり、御用が有難いのであり、お供えも又有難いのである。北野の中村さんが、何年か前に云った名セリフが有りますよねえ。神様は、お参りのしもうけ、お供えのしもうけ、この確信を持って日々が過ごされなければ駄目だと思う。
お参りしてあげようとでもなからなければ、お供えしてあげよっとでもないのです。させて頂きよる事が分かる。神様のお許しを頂かなければ、お参りさせて頂く事がでけん。いくら心が、先に流行っても、そう、中村さんは、今度二十日間もでしたかねえ。お参りが出来なかったでしょう。お参りが出来るようになって、改めて、神様に許されて参っておるんだなあという事がわかるから有難い。しかもそれが七十年近く、当たり前のようにして朝参りが出来ておる。
ここんところが、最近云われる、信心は親に孝行するも同じことぞやという、これは、私は、方向の最高のものだと思うんです。私ども信心の方向というものが、様々な、それは、ピンからキリ迄ございます。けれども、その事がですねえ。当たり前の事としてなされるという事が、最高だと。子供が、まあ云うならば、親に育てられた。育てられたから恩返しの為に、親をまかなわんならんてそんな事でないでしょうが。それが当たり前の事として、育てる事にも条件がなからなければ、まかなう事にも、条件がないでしょうが。これが最高なんです、お道の信心の。
信心は、親に孝行するも同じ事そういう信心を頂かしてもらい、身につけさしてもらうには、今日、わたしが申しましたように、あっ間違いがないなあ、もう、これは誰でも気がついておった事と思うんですけれども、金光様が、ああいう、生きながら生神様、この方こそ生神様と、思わして頂ける金光様がです、御祈念を終わられると、一番に御覧になるのは時計であると。いかに御自分に厳しゆう、おありになったかとゆう事が分かります。
今日も間違いなく、御用させて頂いておったんだと、お感じになったのではあるまいか、これは、私の想像ですけれども、必ず一番に時計を御覧になった。そして次の動作をなさる。
そういう間違いのない、お働きの中に、私共も日常生活があるところにです。本当の「信心は、親に孝行するも同じ事ぞや。」というようなおかげが受けられるとこう思う。お互いの信心の方向の最高のところはです。「信心は、親に孝行るも同じ事ぞや」というようなです。おかげを頂くけんお参りをする。これを、お願いせんならん、お参りしよる。こういうことだから、こういう御用さしてもらう。と云ったような、思惑とか、条件のないもの、親をです、無条件で育てる事の上に於いてもです。親をまかない、親をみるという事の上に於いてもです、それがなされるように、人間氏子として当たり前の道をです、教祖は指し示し教えていて下さった訳なんです、「信心は、親に孝行するも同じ事ぞや。」そこには、なるほどそうだな神様の御守りの中に、こんなにも間違いがなく、お働きを頂いておるんだからという、立証がなされていかんとです。それがいわゆる、参ってあげる事になり、お供えしてあげる事になる。そこには、信心が、不純な、御利益主義になってくるのです。その間違いのない働きを頂くためにもです、私どもがいかに心を、いろいろな意味に於いて信心修業が、なされなければならないかとゆう事。その為の信心修行なされなければならないかという事がわかるでしょ。
私どもの日常生活が、実意を欠いでしまっておる、だらしがない、いうなら、心の生活をしておったんでは、そういう間違いない働きが、そういう素晴らしい、タイミングの中におかげを頂く事かでけんのです。それであってはいつ迄たっても、「信心は、親に孝行するのも同じこと。」が分かってもです、実感としての、当たり前の事としての信心がです、人間氏子として当然の事である、信心であるという事が分からんのです。そういう信心、そういうおかげの頂けれる方向を神様は示して下さるのでございますから、その線に添って、皆さん信心して頂きたいと思うのです。どうぞ。